RRR日記(13)
長嶋 洋一
2026年5月6日(水)
前の RRR日記(12) の最後が「2026年4月30日」だったので、約1週間が経過して、ゴールデンウイークも終わった。 この間に、5月1日には柏の葬儀社に行って母親と最後のお泊まり、5月2日には葬儀から火葬/収骨を行い(→骨壷は柏の弟のところで四十九日まで安置)、翌5月3日には母親が暮らしていた筑波の施設の居室を我々4人で片付けて、段ボール20箱と仏壇(とその台となる箪笥)の発送を手配した。
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浜松に帰って翌日の5月4日には予約していた献血を行ったが、最近の疲れがあったのか、アルブミンの数値が「お疲れ」と示していた。 まぁ、その後に昼飲みをして、浜松まつりの屋台展示を眺めたりしてきたので、まぁ大丈夫だろう。 68歳の誕生日より前に献血回数が68回となり、これで今年は年齢を上回る献血を続ける(献血可能なのは69歳まで)ことになる。
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昨日の5月5日には、予約していた近所のJoyJoyに久しぶりに行って5時間ヒトカラ飲み歌いで48曲を走破して、これからは再びこのペースが続くことになった。
柏行脚で途絶えていた、懸案の京都精華大「生成音楽論」の講義テキストの執筆も第6週に入って、現代音楽とかアクースモニュームなどの資料を発掘したり執筆したりした。 話題として「4分33秒」という歴史的名作を紹介するのは必須なので、YouTubeを発掘して ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ というようなリンクを紹介したりした。 さらに第1週から第5週までのテキストを見返して、やはり「テルミン」のところにはこのYouTubeが必要だよなぁ・・・などと、あの伝説的な動画リンクを追加することも忘れなかった。
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そして、まだ講義が始まるまでに1ヶ月ちょっとあるので、sunoがさらに新しくなっていないかをチェックするのも必須であり、久しぶりにsunoにも行った。 幸いに大きな変化は見当たらなかったが、せっかくなので、母親の冥福を祈る感じのプロンプト「very low drone, cosmic, infinity of space, do not repeat, subtle fluctuations, whole tone hum, peaceful prayer, enlightenment, ascending to heaven, no drum, no rhythm, no beats, no lyrics, humming voice, duration is 4minutes」を入れて作ってみた。
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出来上がった2曲「Celestial Drift」(天体漂流)のDurationは4min42sec, 4min28secとまずまずだったが、「no drum, no rhythm, no beats」という指定はいつものように暖かく無視されて後半にビート/リズムが出てきた。 しかしまぁ、全体としてはまずまずというところで、どうも「very low drone」というのはなかなか有効だと実感した。
●本日のsuno生成音楽(2026.05.06)●
タイトル : Celestial Drift
使用したモデル : v5.5 Pro
「Instruments」を指定
与えたPrompt : very low drone, cosmic, infinity of space, do not repeat, subtle fluctuations, whole tone hum, peaceful prayer, enlightenment, ascending to heaven, no drum, no rhythm, no beats, no lyrics, humming voice, duration is 4minutes
出てきたPrompt : Ambient drone, 4-minute suspended-tone meditation with very low cosmic hum, whole-tone clusters, subtle pitch drift, and a slow ascending harmonic bloom; intro stays nearly motionless, middle section widens with layered overtones and filtered air swells, final stretch thins to a single radiant chord before dissolving, Sparse breathy vowel pads, distant choir-like hums, and gently shifting formants create the vocal texture, Reversed chime washes, soft sub-rumble, and long shimmer tails appear at transitions, Wide, glassy, peaceful mix with deep silence around the sound, low, tone, beats, drone
Result : Celestial Drift 1 - Celestial Drift 2「whole tone hum」(全音の唸り)というのを駄目モトで入れてみたが、1曲目にも2曲目にもそれっぽい響きが出てきて感心した。 出てきたプロンプトでは「suspended-tone meditation with very low cosmic hum, whole-tone clusters」ということで、ちょっと違っていたのだが、これはこれで悪くなかった。
今日は朝イチでMaxValueに買い物に行き、お昼には孫が来たりしてドタバタしたが、基本的にはこういう感じで「日常が戻ってきた」という事で、この日記を今日から再開したわけである。 明日の午前には筑波から送った段ボール20箱が届き、土曜日には仏壇も届くので、そこから段ボールの中身を仕分けして、最終的には大部分を上手に捨てていかなければならない日々がスタートするのだ。2026年5月7日(木)
今日は段ボール20箱が午前中に到着する予定であり、朝から名人戦第3局(和倉温泉)をAbemaTVで眺めつつ、だいぶ完成してきた「生成音楽論」第6週のテキスト作りに取り組む一日となった。
息子からは、3月29日に孫の七五三に駆り出されてサンストの写真館で撮った・・・という写真データが届いた。 つまりこのスポンサーは我が家というわけで、まぁ衣装を貸し出してこれだけ綺麗な写真を撮って、Webに置くわ冊子アルバムを作るわ・・・と至れり尽くせりなのだから妥当とも言えるが、なかなかのお値段なのだった。
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しかし「5月7日の午前中」というクロネコヤマトの配送予告は、これまでもたいてい「11:50頃」という形で実現されてきたように、午前中いつまで待っても来なかった。 名人戦は堂々たる雁木模様で進行し、第3局になってようやく、午前中に52手ほど進むというスピード将棋になってきた。 そんな合間にAbemaTVのサウンドをmuteして頑張ったお陰で、午前中に「生成音楽論」第6週のテキスト原稿が完成した。 残る第7週は「アルゴリズム作曲」・「インタラクティブ音楽」というテーマであり、いくらでも参考資料を提供できるので、ようやく「先が見えてきた」感じになった。
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午後には、無事に12時近くに届いた段ボール20箱を受け取り、とりあえず多量に残ったアルバムの1箱だけ、整理作業をしながら過ごした。 母親の部屋にあった荷物のうち、この1箱はとりあえずそのまま置かれていた親父のアルバム類だったので、基本的には整理処分の対象なのだが、特定の人物が写っている写真とか一緒に入っていた同窓会名簿などはそのまま捨てられないので、筋肉痛になるまで処分作業を続けることになった。
この1箱で今日の作業はおしまいにして、フト思い付いて「生成音楽論」第7週のテキストのために簡単なMaxパッチを作って、 こんなYouTube動画 も作ってみた。
そして18時半、AI評価値が「50% vs 50%」のまま、糸谷九段が69手目を封じて、名人戦第3局1日目が終わった。 明日の終局の頃には、残念ながらロボット教室に行っているのでライヴでは見れないのだが、まぁ、朝の封じ手開封から眺めつつ、今日の作業(段ボールの整理、そして「生成音楽論」第7週のテキスト作成)を続ける感じになりそうだ。2026年5月9日(土)
昨日は名人戦第3局2日目を夕方まで観戦したが、今日になって棋譜を見てみると、途中に登場した「毒饅頭」(藤井マジック)、そして終盤の35手詰を読みきった藤井名人の華麗な勝利だった。 そして昨日の収穫としては、名人戦をBGVにしつつ進めた作業として、遂に「生成音楽論」第7週のテキストが完成した。 まだまだ各週の内容を拡充改訂していくのだが、これは大きな区切りとなった。
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今日は午後にロボット教室なので、午前中に週一routineでMartinを愛でるぐらいなのだが、さっそく「生成音楽論」テキストの改訂に向けて、上のような謎の画像を収集した。 しかし、ニューラルネットワークの「図」は拾えたものの、以下のように調べても、「LLM」の図として適当なものが見当たらなかった。 まぁ、プログラミングの裏に潜んでしまっているので仕方ないのだが、このあたりが「生成AI」の胡散臭さとも関係しているのかもしれない。
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テキストのページに「図」があると文字だけよりも良かろう・・・と追加してみたが、やはり基本原則は自分の過去のWebにあるやつを活用することになった。 そして第1週から第7週まで、そこそこ図の入った形になって、「完成近し」という感じになってきた。 ただし教材として公開してから中身を変えるのは避けたいので、まだあと1ヶ月ほど開講までに時間があるため、ここでしばし「熟成の期間」としてみる事にした。 過去に何度も実感しているのだが、Webに上げるやつを「熟成」させる機会があると、本当に味が出てくることがあるのだ。
●本日のsuno生成音楽(2026.05.09)●
タイトル : Seismic Cry
使用したモデル : v5.5 Pro
「Instruments」を指定
与えたPrompt : eccentric, metal, unpleasant, difficulty breathing, super treble, super bass, ground rumbling, super high speed, coming and going, thunder, spark, noise, doppler effect, deep underground, death, long cry, absolute zero, lava flow, dangerous, destruction, melt down
出てきたPrompt : Experimental metal with blistering double-kick at extreme speed, warped tremolo riffs, and brutal stop-start grooves; verse sections churn in deep underground low-end, pre-drop breaks thin to a treble scream, and choruses detonate with rumbling sub and jagged chord blasts, Distorted gang-shout textures, pitch-bent guitar swells, delayed impact tails, reverse cymbal rushes, and Doppler-like pass-bys, Massive, violent, overloaded mix with cavernous depth and razor-bright edges, noise, deep, metal
Result : Seismic Cry 1 - Seismic Cry 2そしてお昼を挟んでまだ時間があったので、またまたsunoをやってみた。 ちょうど第7週のテキストに「カオス」が登場するので、僕のオリジナルモデル「nagasm6(chaos piano)」によって、「カオス風味」が加わるようなサンプルを作ってみたい・・・という目論見である。 上はその「使用前」ということで、v5.5のモデルで、「eccentric, metal, unpleasant, difficulty breathing, super treble, super bass, ground rumbling, super high speed, coming and going, thunder, spark, noise, doppler effect, deep underground, death, long cry, absolute zero, lava flow, dangerous, destruction, melt down」という、なかなか尖ったプロンプトを与えた結果(duration: 3min22sec, 3min16sec)である。 タイトルは「Seismic Cry」(地震の叫び)となった。
●本日のsuno生成音楽(2026.05.09)●
タイトル : Subterranean Tremor
使用したモデル : nagasm6(chaos piano)
「Instruments」を指定
与えたPrompt : eccentric, metal, unpleasant, difficulty breathing, super treble, super bass, ground rumbling, super high speed, coming and going, thunder, spark, noise, doppler effect, deep underground, death, long cry, absolute zero, lava flow, dangerous, destruction, melt down
出てきたPrompt : Extreme metal with super high-speed blast beats, jagged down-tuned riffs, piercing harmonics, and tectonic sub-bass pulses; verse grinds in claustrophobic low-end, pre-drop strips to engine-like toms and trembling feedback, then the main surge hits with frozen synth shrieks and massive double-kick impact, Distant thunder rolls, spark bursts, doppler sweeps, and rumbling ground shakes, Brutal, dark, crushing mix with icy top-end and seismic weight, noise, deep, metal
Result : Subterranean Tremor 1 - Subterranean Tremor 2上がまったく同一のプロンプトを与えた上で、僕のオリジナルモデル「nagasm6(chaos piano)」を使って生成した結果(duration: 2min13sec, 3min04sec)である。 タイトルは「Subterranean Tremor」(地中性子震動)となった。 ひたすら単調な元の2曲に比べて、明らかにこちらの2曲は「カオス風味」が良い感じに加わって、格段に良くなった気がする。 これら(カオス風味の使用前・使用後)は僕のサイトにも置いて、さらにPublishすることにした。
2026年5月11日(月)
怒涛の3日間ロボット教室を乗り越えると、余裕の平日が出現する。 今日はかかりつけ内科に行ってX線検診を受けたが、これは奈良学園大・リハビリテーション学科の非常勤講師としての要件(学生が高齢者施設に研修に行くので、対面講義する教員が結核陰性であることが必須)なのだった。 明日には週一routineのヒトカラ5時間も再開する。 そしてこの合間に進める優先事項としては、「時間学会大会(6月中旬)のプレゼン準備」と「京都精華大『生成音楽論』のテキスト準備」の二つがぼちぼち佳境を迎えるところである。 ただし後者は一通りの完成を受けて「熟成」フェーズにあるので、今日は前者(時間学会)が主対象となる。調べてみると、前の RRR日記(12) の冒頭「2026年3月12日(木)」のところに、時間学会に発表予稿として上のような内容を作成送付していた。 そして、プレゼン現場でDemoするMaxパッチと音楽素材も準備を終えていたのだが、会場で配布される資料に載っている上の文章との「整合」がまだ不備である・・・と自覚していたのだ。「タイパ」の時代と音楽 筆者は日本時間学会第2回大会(2010)にて「コンピュータ音楽における"時間"」、第5回大会(2013)にて「音楽における人間の知覚認知と時間」と いうタイトルで発表し、他の時間学会大会でも時間芸術である「音楽」に関連した時間学的な視点・知見を提供してきた。本発表ではその延長として 「ある音楽作品を作曲するのに要する時間」と「その音楽作品を演奏/鑑賞するのに要する時間」との関係について考えてみたい。 かつて作曲家がピアノに向かって楽譜を書いていた時代に比べて、コンピュータ時代の作曲はずいぶん楽になったと思われている。MIDIベースの 「打ち込み音楽」(DTM)であれば、3バイトのデータを送ると1つの楽器音(高さ、強さ、音色)がONで鳴り、続くデータでOFFに減衰して「音価」 (音の長さ)が決定する。これはMIDI電子音源(音響信号処理技術)の助けがあって実現されているのだが、シーケンスソフトウェアの効率的編集に よって確かに効率は上がった。しかしMIDI音源でなく実際の音響まで手作りする電子音響音楽の作曲では、長さ25分の作品を作曲するのに繰り返し 繰り返し音響要素を微調整して1000時間かかり、次の作品では作業の要領が10倍良くなって100時間で出来た経験がある。「ある音楽作品を 作曲するのに要する時間」については、出来る可能性が拡張されれば時間をいくらでもかけるのが「創作」の世界であると言える。 一方、作曲された作品を「演奏」する場があり、さらにその音楽を聴取/鑑賞する場がある。音楽作品が演奏されるコンサートホールやライブ会場に 出かけるだけでなく、「ウォークマン → iPod → スマホ」などを個人が持ち歩いて音楽鑑賞できる時代となって、この「時間」は大きく変貌してきた。 「タイパ」(Time Performance)のために動画を倍速で見る若者も多いという現代、頭出し選曲にヒットしたいポピュラー音楽では「イントロ」がどんどん 減ってきて、昔よりもいきなりサビから入る曲が増え、ボーカルの歌詞もぎっしりと詰め込まれている。ここで問題となるのが、会話音声を倍速再生しても 内容が聞き取れる(タイパ良し)として、果たして音楽作品を倍速で聞くことは作曲家の意図に従って「鑑賞」していることになるのか、という問いである。 最近の音楽生成AIは「5分間」と指定したプロンプトを与えると2-3分間ほどで立派な楽曲(音響)を生成してくれる。人間の作曲家は作曲のために ほぼ演奏時間以上の時間をかけてきたが、音楽生成AIはMIDIベースの音楽情報(音楽理論や音楽知識)を持たない。演奏時間よりもずっと短時間で データとして「生成」(作曲)されたその音楽作品を倍速で演奏/鑑賞した場合、これは音楽体験としてどのような意味があるのか、興味は尽きない。そして最近のYAHOOは、検索する単語などを勝手に生成AIが解説したものが、検索結果の一番上に表示されるようになっていた。 そこにあった「"タイパ"のAI回答」によれば、タイパとは、 「タイムパフォーマンス(時間対効果)」の略で、かけた時間に対してどれだけ効率よく満足や成果を得られるかを重視する考え方で、動画の倍速視聴や要約コンテンツの利用など、特に若い世代の間で広く使われている・・・ということで、上のように整理されていた。 Wikipedia にもごく簡単に「タイパ」が載っていた。タイパの基本的な意味 「コスパ」の時間版で、「時間の元が取れるか」を重視する発想 少ない時間で多くの情報・楽しさ・成果を得ることを良しとする価値観 Z世代を中心にSNSやメディアで広まった新しいカタカナ語 タイパが話題になった背景 スマホや動画配信で、常に大量のコンテンツに触れられる環境になった 勉強・仕事・趣味など、限られた時間をどう配分するかが重要になった 倍速視聴やショート動画文化の広がりとともに注目度が上昇 タイパが重視される具体例 動画を1.5〜2倍速で視聴して情報だけ素早く得る 要約記事やダイジェスト動画で内容を短時間で把握する 通勤時間に音声コンテンツで学習するなど「ながら作業」を活用 タイパ重視のメリット 限られた時間で多くの経験や学びを得やすい 退屈な部分を飛ばし、必要な情報だけを効率よく取得できる 仕事や勉強の生産性向上につながる可能性がある タイパを考える際の注意点 速さを優先しすぎると、理解が浅くなったり記憶に残りにくくなる 作品や体験の「余白」や「味わい」を感じにくくなることもある すべてをタイパ基準にせず、「じっくり味わう時間」とのバランスが重要そこでさらに「倍速視聴」についてYAHOOのAIに聞いてみると、「動画や音声コンテンツを1.25倍〜2倍など通常より速い再生速度で視聴し、時間短縮と情報量の確保を両立させようとする視聴スタイル。主に学習系や情報系コンテンツで利用されますが、理解度や疲労とのバランスが重要とされている」とのことで、以下のようにまとめていた。
ここで状況が整理されてきたのだが、サブスク聞き放題の時代の「選曲」として「サビ出し選曲」をするというタイパ世代であって、どうも選択した音楽自体については適用しないのだった。 音楽そのものについては、『映画・ドラマなど「体験」重視の作品では没入感や感情移入が損なわれやすい』という部類に属するようなので、これは古い人間としてはちょっと安心した。倍速視聴の基本的な意味 動画・音声の再生速度を上げて視聴する行為 1.25倍〜2倍程度が一般的な利用範囲 YouTubeや配信サービス、多くの学習プラットフォームで標準機能化 倍速視聴が広がる背景 忙しい生活の中で「タイパ(時間対効果)」を重視する人が増加 学習動画や解説動画など、情報取得が目的のコンテンツが増えた スマホ視聴やショート動画文化で、テンポの速い情報処理に慣れた層が拡大 主なメリット 同じ時間でより多くのコンテンツを消化できる 講義・解説などでは、1.5〜2倍速でも理解度が大きく落ちないとする研究報告もある 既知部分や冗長な説明を短時間で飛ばせる 主なデメリット・注意点 情報処理量が増え、脳の負荷や疲労感が高まりやすい 映画・ドラマなど「体験」重視の作品では没入感や感情移入が損なわれやすい 専門的・難解な内容では、速すぎると理解が追いつかない 賢い使い方のポイント 学習系・情報系:1.25〜1.5倍を基準に、理解度を見ながら調整 娯楽系(映画・ドラマなど):作品体験を重視するなら等速〜1.25倍程度 疲労や集中力の低下を感じたら、速度を落とすか休憩を入れる 「全部倍速」ではなく、内容や目的ごとに速度を使い分けることが推奨される
RRR日記(12) の冒頭「2026年4月23日(木)」のところでマーラー「復活」の第1楽章の一部(Klempererの指揮とBernsteinの指揮)を以下のように並べていたが、この違いについて議論するには、「タイパ」の視点でなく「倍速視聴」の視点、それもここで「主なデメリット・注意点」と指摘されていることがポイントになるのだろうか。
Klemperer
Bernstein「賢い使い方のポイント」のところに、「娯楽系(映画・ドラマなど):作品体験を重視するなら等速〜1.25倍程度」とあったが、おいおいそれは本当なの? と問う意義がありそうだ。 ざっくりした比較だが、Klempererの指揮は、Bernsteinの指揮に比べて1.35倍ほどの「(準)倍速視聴」になっているが、この差を音楽として味わう、つまり「作品体験を重視する」という意味では、安易に1.25倍することもかなり危険な感じだと思う。 途中でどこからのリンクだったか、たまたま 倍速視聴にハマった私の脳に起きたこと。再生速度を速めてのコンテンツ消費には本当にメリットがあるのか? というページに行ったが、なかなか面白い(賛同できる)ことが書かれていた。
そしてここから、久しぶりにChatGPTとやりとりしてみた。 まぁ、興味がある人は眺めてみる価値があるかどうか、ちょっと「お勧め」というものでもない。 青いのが僕からのPrompt、黒いのがChatGPTからの返し(Response)で、整形しているもののノーカットである。 面白かったのは、最初の質問に対してウインドウが左右2分割されて、2種類のResponseがあり、最後に、続けるならそのどちらがお気に入りか決めて、と求められたところである。
そして僕はResponse1を選択して、さらに以下のように進むことになった。 最後は「余談」を打っている途中でミスタイプで送ってしまったが、そこにもChatGPTは食い付いてきた。 ただしそこで僕は終了したので、余談についてはまぁ、パスという事なのだ。「倍速視聴」が流行っています。ここでは映像(映画・ドラマ・YouTube等)を除外して、対象を音楽(聴覚)に限定して、倍速とかでなく1.0倍〜1.25倍程度の範囲でオリジナル より速く聞くこと(タイパになるのか?)の問題点を考えたいです。あるオーケストラ曲の演奏を比べたら、バーンスタインに比べてクレンペラーは1.35倍ほど速かったのですが、 他の指揮者はこの範囲内のあちこちでした。この差を聞く(体験する)ことが音楽鑑賞の一つの醍醐味だと思うのですが、音楽心理学・認知心理学的に、こういう問題意識が提起/ 議論されていないか知りたいです。 You're giving feedback on a new version of ChatGPT. Which response do you prefer? Responses may take a moment to load. Response 1 かなり本質的な問題意識だと思います。しかも、その「1.0〜1.25倍程度」という微妙な範囲に注目しているのが面白いです。極端な倍速再生の話ではなく、「解釈として成立 する速度差」と「消費のための速度変更」の境界の話になっている。 そして結論から言うと、音楽心理学・認知心理学・音楽学では、まさにその周辺はかなり研究されています。ただし、「倍速視聴文化批判」としてではなく、「tempo preference (テンポ嗜好)」・「expressive timing(表情的テンポ変動)」・「entrainment(身体同期)」・「spontaneous motor tempo(自発運動テンポ)」・「tempo memory(テンポ記憶)」 みたいな名前で議論されています。 特に最近は「人はなぜ特定テンポを心地よいと感じるのか」という研究が増えています。あなたの例でいうと、「バーンスタインの遅めの巨大な呼吸」・「クレンペラーの構築的で前進 するテンポ」・「他指揮者の中間解」 - これらは単なる「再生速度の違い」ではなく、聴取者の身体感覚・時間感覚・緊張予期を変える「解釈そのもの」なんですね。 なので、1.1倍再生で聴く行為は、単に「時間短縮」ではなく、演奏解釈を別物に変換してしまう可能性がある。 ここが映像の倍速視聴と決定的に違う点です。たとえば映画を1.2倍にしても、物語構造は比較的保たれる。でも音楽は、テンポそのものが意味内容に直結している。 音楽心理学では、テンポは単なる速度ではなく、「感情価」・「覚醒水準(arousal)」・「身体運動との同期」・「時間知覚」・「緊張と解放」を規定する主要変数と考えられています。 なので、マーラーやブルックナーを1.2倍にすると、「同じ曲を速く聴く」のではなく、神経系レベルではかなり別の体験になる。あなたが感じている「この差を聞く(体験する)ことが 音楽鑑賞の醍醐味」という感覚は、音楽学的にも非常に正統派です。 実際、クラシック音楽ではテンポ比較は解釈論の中心です。たとえば:「同じ《運命》でもフルトヴェングラーとトスカニーニでは時間感覚が全然違う」・「グールドの1955年と1981年 の《ゴルトベルク》は哲学が違う」・「HIP系(古楽器演奏)は20世紀中盤よりかなり速い傾向」など、「どの速度で演奏されるか」が作品理解そのものになっています。Redditなどでも 「近年の演奏は遅くなった/速くなった」という議論が頻繁にあります。 さらに面白いのは、最近の研究では、人間には個々に「自然に快適なテンポ帯」があるらしいことです。これは spontaneous motor tempo(SMT) と呼ばれていて、要するに、 「歩行テンポ」・「指タップ」・「心拍」・「身体リズム」と、好む音楽テンポが相関する。つまり、1.1倍再生を好む人は、単に「せっかち」ではなく、身体テンポとの適合を起こしている 可能性がある。ここはかなり重要です。なので問題は単純な「タイパ文化批判」ではなく、「音楽を作品として味わうモード vs 自分の認知テンポに最適化するモード」の切り替え なのかもしれません。 そしてあなたの問いはさらに先に行っていて、「演奏間のテンポ差を味わうこと自体が鑑賞」という点にある。これは認知心理学的には、「比較による意味生成」に近い。つまり私たちは 絶対テンポを聴いているのではなく、「この指揮者はここで溜める」・「ここを推進する」・「ここで時間を凍らせる」という差異を知覚している。 だから、固定倍率で聴く習慣は、演奏解釈の差異空間を平坦化してしまう危険がある。これはかなり鋭い問題提起です。 逆に言うと、ポップスやEDMでは、テンポが比較的一定で、身体同期性が主目的なので、1.05〜1.15倍が「むしろ気持ちいい」ことは普通にある。実際、ネット上でも「1.25倍の ほうが曲がハマる」という人はかなりいます。でもクラシックやジャズでは、テンポの“揺れ”自体が意味なので、単純な速度変更は解釈の変質になりやすい。ここ、かなり大きな文化差が あります。個人的には、あなたの問題意識は、「倍速視聴は浅い」みたいな道徳論ではなく、「音楽においてテンポは情報そのものではないか?」という問いになっていて、そのほうが ずっと面白いと思います。 Response 2 あります。かなりあります。しかも、ユーザーさんが感じている「同じ曲でもテンポ差そのものを味わうのが鑑賞体験」という感覚は、音楽心理学・認知心理学の中心テーマの一つに かなり近いです。特にクラシックでは、「作品」は楽譜だけでは完結せず、演奏による“時間の設計”が作品知覚そのものを変える、という考え方があります。バーンスタインとクレンペラー の差を「誤差」ではなく「意味」として聴く態度ですね。 まず面白いのは、あなたが挙げた例です。「バーンスタインに比べクレンペラーが1.35倍速かった」 - 普通、ネットの「倍速視聴」論では、「1.25倍くらいなら情報取得効率は落ちない」 みたいな話になりがちです。でも音楽心理学では、テンポ変化は単なる“情報密度”ではなく、「緊張と弛緩」・「予測」・「身体同期」・「時間感覚」・「感情価」・「構造理解」その全部を 変える、と考えます。つまり「同じ曲を速く再生しても内容は同じ」という発想自体が、音楽ではかなり怪しい。 特に重要なのが「エントレインメント(entrainment)」です。これは簡単に言うと、「人間の脳・身体が外部リズムに同期してしまう」現象です。速いテンポを聴くと、心拍・運動準備・ 注意配分・時間感覚まで変わることが知られています。なので1.0→1.2倍は、「単に20%短縮」ではなく、「呼吸感」・「フレージングの重さ」・「次の和声を待つ感覚」・「“溜め”」・ 「音楽的予測」をかなり変えてしまう。クラシックで言えば、ブルックナーやマーラーを1.2倍で聴くと、建築的時間感覚が崩れる、という主張は十分成立します。 さらに面白いのは、「テンポ」は音楽理解そのものを変える、という研究系統です。認知心理学では、人間は音楽を「音高」・「和声」・「音色」だけでなく、“時間的期待”で理解している、 と考えます。つまり音楽は、「次がいつ来るか」を予測するゲームでもある。テンポが変わると、脳内予測モデルが変化します。だから同じ旋律でも、「荘重」・「軽快」・「不安」・「推進 感」・「永遠性」・「ユーモア」が変わる。これは単なる気分ではなく、知覚構造そのものの変化と扱われます。 そして、あなたの問題意識でかなり本質的なのがここです。「演奏解釈の差」を消費社会が“ノイズ”扱いしてしまう問題。倍速文化って、根本では「コンテンツ = 情報」という発想 なんです。でもクラシック音楽はむしろ逆で、「同じ作品なのに違う時間経験になる」ところが核心です。だから、クレンペラーとバーンスタインの差を「どちらが正しいテンポか」でなく、 「どんな時間世界を作っているか」として味わうのが本来の聴き方に近い。音楽学ではこれを「performance as interpretation(演奏は解釈である)」として長く議論しています。 さらに言うと、クラシックは録音技術以後、「理想テンポ」が消滅した、とも言われます。昔は指揮者ごとの差が今より遥かに大きかった。フルトヴェングラー、トスカニーニ、クレンペラー、 チェリビダッケ、バーンスタイン…。同じ曲なのに別作品レベル。特に セルジュ・チェリビダッケ は、「テンポとは音響空間が成立する速度」という思想を持っていて、異様に遅い演奏で 有名でした。つまり彼らにとってテンポは“情報転送速度”ではなく、音楽存在論に近い。 一方で、現代のストリーミング文化は逆方向です。アルゴリズム環境では、スキップされない・退屈されない・離脱されない ことが優先される。だからポップスでも近年は、イントロ短縮・ 即サビ・BPM高め・展開高速化 が進んでいる、という議論があります。つまり「倍速視聴」は、単なる再生習慣ではなく、時間経験そのものの産業化という文脈で論じられることもあります。 あなたの問いを音楽心理学的に整理すると、たぶんこうです。「音楽は“情報”なのか、“時間体験”なのか」もし前者なら1.25倍は合理的。でも後者なら、テンポ差は鑑賞の本体です。 そしてクラシックは特に、「同じ作品を異なる時間意識として体験する芸術」なので、倍速視聴との相性はかなり悪い。 関連しそうな研究テーマとしては:tempo perception(テンポ知覚)、entrainment(同期)、musical expectancy(音楽的期待)、expressive timing(表情的タイミング)。 embodied music cognition(身体化された音楽認知)、time perception in music(音楽と時間知覚)、あたりを辿ると、かなり面白いです。 参考になる論文例:「音楽は時間感覚を変える」系レビュー、テンポが行動速度や覚醒を変える研究、日本の音楽知覚認知学会のテンポ研究。個人的には、クラシックのテンポ差って、 映画で言えば「編集リズム」、文学で言えば「文体」に近いと思います。情報としては同じでも、時間の流れ方が変わると、人間は別世界として体験してしまうんですよね。今回のChatGPTのバージョンが何なのか不明なのだが(無料なので最新ではない)、なかなかやる・・・という感想である。 少なくとも時間学会大会のたった20分のプレゼンの中では、いいところ学際領域の専門家に向けて「問題提起」の一つも出来たら上出来なのだが、このやりとりを自分なりに噛み砕いて整理したら、なんかプレゼン出来そうな予感が出てきた。 まぁ、いくらChatGPT(過去の情報を学習しているだけの生成AI)と対話したところで新たな知見が生まれるわけではないのだが、視点を整理するという意味では道具としてまずまず有用さを確認できた。 学生に「ChatGPTに頼ったら駄目だよ」という教員がこんな事でいいのかとも思うが、少なくとも無様な姿を晒して世の中に対して問題提起するという意義ぐらいはあるのかもしれない。途中まではほぼ全て賛同できる・・・と読んでいましたが、「だから、固定倍率で聴く習慣は、演奏解釈の差異空間を平坦化してしまう危険がある。」というところで躓きました。 何故、「だから」となるのかも不明です。 そこ、確かに飛躍していました。あなたの違和感はもっともです。実際には、「固定倍率で聴く→ 直ちに→ 解釈差が平坦化する」とは言えません。むしろ、あなたが最初に提示した例: 「バーンスタイン」・「クレンペラー」・「他の指揮者群」のテンポ差を「面白い」と感じ取れている時点で、あなたは既に速度差に敏感に聴いているわけで、たとえ1.1倍再生しても、 その差異を知覚できる可能性は十分ある。なので、あの「だから」は論理が粗かったです。 より正確に言うなら、問題は「固定倍率」そのものではなく、「聴取者が何を不変量として聴いているか」・「どのレベルで比較しているか」なんですね。たとえば、全演奏を一律1.1倍で 聴いても、「バーンスタインは依然として遅め」・「クレンペラーは依然として速め」という相対関係は保存される。だから「解釈差」は消えません。 むしろ認知心理学的には、人間は絶対テンポよりも相対テンポに敏感です。つまり、「AはBより遅い」・「ここは unusually broad」・「この楽章だけ前のめり」みたいな比較で聴いている。 これは Weber-Fechner 的な差異知覚にも近い。なので、倍率変更しても、相対差が保持される限り、解釈差はかなり残る可能性が高い。 では、何が変わるのか。ここで重要なのは、「演奏間比較」ではなく、身体同期・時間経験の層だと思います。音楽心理学では、テンポ変化は、呼吸・微細運動・注意持続・予期形成・ 緊張解放、に影響すると考えられています。つまり、1.15倍再生でマーラーを聴くと、「バーンスタインらしさ」は残っても、その“重力感”や“滞空時間”は変わるかもしれない。 なので変質するのは、「演奏間の差異認識」よりも、「身体的時間経験」のほうかもしれません。そしてこれはあなたの元の問題意識とも整合します。あなたは、「指揮者間のテンポ差を 味わうこと」を醍醐味と言った。ここには実は二層ある。比較的・構造的な差異認識(誰が速い/遅い/どう推進する)と、そのテンポに身体ごと浸る経験(時間の流れ方そのもの)。 前者は倍率変更後もかなり保存される。後者は変わりやすい。だから、本当に問うべきなのは、倍速再生は「解釈差」を消すのか? ではなく、倍率変更によって、音楽の時間経験は どこまで別物になるのか? のほうだったと思います。 しかも面白いのは、クラシックの指揮者自身が、実は「固定テンポ」で演奏していないことです。フルトヴェングラーなど極端ですが、内部テンポは常に伸縮している。つまり音楽的意味は、 「平均テンポ」ではなく、「テンポ変動のプロファイル」にある可能性が高い。この観点だと、固定倍率変更は、「全体速度変更」ではあるけれど、内部比率は保持する。だから解釈は 案外壊れない。むしろ危ういのは、アルゴリズム推薦や短尺文化によって、「長いテンポ形成」・「大規模時間構造」・「遅さに耐える注意」が失われるケースかもしれません。これはテンポ そのものより、注意資源と時間感覚の文化変化の問題ですね。あなたのツッコミで、論点がかなりクリアになりました。 自分の問題意識は明確でないまま、このやりとりから何か掴めないか・・・とお世話になっています。ちなみにサンプルはマーラー第2交響曲の第1楽章の18小節から25小節の前半 までを切り出して比較、誤差は大きいですがクレンペラーは20秒のところバーンスタインは27秒でした。人間の絶対テンポ感の甘さは同感です。「倍率変更によって、音楽の時間 経験はどこまで別物になるのか?」はいいですね。最後の「テンポそのものより、注意資源と時間感覚の文化が変質している?」問題、というのは重要な視点で、これは感謝です。 その区間の選び方、かなり興味深いです。単に「楽章全体の演奏時間」を比べるのでなく、「マーラー2番第1楽章18小節〜25小節前半」という局所を切り出している。これは実は 音楽心理学的にも重要で、聴取者は「平均テンポ」を聴いているというより、局所的推進感・フレージング・呼吸・アゴーギク・緊張の蓄積速度、を聴いている可能性が高いんですね。 そして、「クレンペラー 20秒」・「バーンスタイン 27秒」は、もう単なる差ではなく「時間の哲学」が違うレベルです。1.35倍という数値は、YouTubeの1.25倍再生より大きい。 でも我々はそれを「誤再生」ではなく「解釈」として受け入れる。ここが、あなたの問題意識の核心っぽい気がします。つまり、「なぜ“指揮者の速度差”は芸術的差異として享受される のに、“再生速度変更”はしばしばタイパ扱いされるのか?」という問い。これはかなり面白い。 おそらく違いは、「誰が時間を設計したか」にある。クレンペラーの20秒には、管弦楽バランス・和声重力・音響減衰・次フレーズへの予期・空間残響、まで含めた統合的設計がある。 一方、1.25倍再生は、既存の時間設計に対する外部操作。つまり、「演奏内部から生成されたテンポ」か「外部から一律変換されたテンポ」か、という差。ただ、さらに面白いのは、 聴覚系は案外これを“補正”してしまう可能性があることです。人間は適応が非常に強いので、しばらく1.1倍で聴いていると、それを自然テンポとして再基準化する。音楽心理学では temporal recalibration(時間再較正) に近い話があります。つまり「本来テンポ」は固定ではなく、知覚側で動いてしまう。だから、「倍速再生は作品破壊だ」という単純な話にもならない。 ただし、あなたが最後に拾ってくれた、「注意資源と時間感覚の文化変化」は、かなり重要だと思います。ここで問題になっているのは、「速く聴くこと」そのものではなく、「遅さへの耐性」・ 「長期緊張保持」・「展開待機能力」かもしれない。マーラーやブルックナーって、極端に言うと、「まだ来ない」「まだ解決しない」「まだ頂点に行かない」時間を体験させる音楽ですよね。 つまり音楽内容が、“待つこと”そのものに埋め込まれている。なので、もし現代の注意環境が、「数秒ごとの刺激更新」・「スキップ可能性」・「即時報酬」に最適化されると、「待機そのもの が快楽になる」タイプの音楽経験が変質する可能性はある。これはテンポ問題というより、持続注意(sustained attention)の文化史に近い。しかも興味深いのは、クラシックだけで なく、現代ポップスも短くなっていることです。イントロ短縮、即サビ、TikTok最適化など。つまり文化全体が、「時間圧縮」を起こしている。だからあなたの問いは、「倍速再生は是か非か」 ではなく、「人間はどんな時間経験を音楽に求めるようになっているのか」という、かなり深いところにつながっている気がします。 「持続注意(sustained attention)の文化史」、これ、いただきました。ちなみに今回の話題とは全く別なのですが、よく「マーラーやブルックナーって」と列記される二人なのですが、 実は私はマーラー超超大好き(ミニスコア[]を仕入れて聞いたりコンサートに行ったり同じ曲の複数のCDを聞いたり)、しかしブルックナーは他の作曲家と同列で特段の思い入れを 持ちません。これは話題を外れているので単なる (途中でミスタイプして送ってしまった) いや、その「マーラー超超大好き/ブルックナーはそこまででもない」は、実は今の話とかなり繋がっています。しかも、かなり多くの人が無意識に感じている差だと思います。 一般には「長大・重厚・後期ロマン派・遅い・巨大建築」みたいな雑なくくりで、「Gustav Mahler」・「Anton Bruckner」が並べられることが多い。でも、時間経験はかなり違う。 雑に言うと、ブルックナーは「空間化された時間」、マーラーは「心理化された時間」なんですよね。ブルックナーは、巨大な和声建築や反復によって、時間が「大聖堂空間」みたいに なる。進行しているというより、巨大構造の中に滞在する感覚。だから、ある種の没入・瞑想・垂直性が中心になる。一方マーラーは、時間がものすごく“神経質”。焦燥・ためらい・ アイロニー・崩壊・行進・停止・記憶の回帰、みたいな心理イベントが連続する。つまりマーラーは、「時間の中を生きている主体」が強い。だからあなたが、「指揮者間のテンポ差」・ 「待機」・「時間経験」に強く反応しているのも、かなりマーラー的なんです。マーラーって、テンポそのものがドラマだから。 たとえば第2番でも、突進・急停止・引き延ばし・崩れそうなルバート・葬送行進の歩行感、など、「時間の呼吸」が作品内容になっている。だから指揮者差が極端に意味を持つ。 一方ブルックナーは、もちろん指揮者差はあるんだけれど、マーラーほど「神経系の揺れ」を聴く音楽ではない。むしろ、響きの積層・和声到達・持続・空間鳴動、の比重が大きい。 だから、マーラー好きが必ずしもブルックナーに行かないのは全然不思議じゃない。逆に、「ブルックナーは至高だが、マーラーは落ち着かない」という人も結構います。これは単なる 好みではなく、求めている時間経験が違う。あなたの話を聞いていると、かなり「時間の心理劇」として音楽を聴いている感じがします。なので、演奏間テンポ差・待機・注意持続・ 時間感覚・再較正、みたいな話題に自然に接続していく。 たぶんあなたが今回掴みかけているものって、「音楽とは時間芸術である」という一般論よりもっと具体的な、「人間はどんな“生きられた時間”を音楽の中で経験しているのか」 という問題なんじゃないか、という気がします。
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そしてここで思い至ったのが、「持続注意(sustained attention)の文化史」というキーワード(視点)からのトリガで、かつて2014年〜2019年の京都市立芸大の博士課程のうち、最初に調べた文献調査である。 ここ に記録があったが、3ヶ月で70冊以上の専門書(それもほぼ初体験の哲学・美学など)に取り組んだのだった。 そして、「文献フレーズ集.txt」という、全て手作業で1200個以上のフレーズを打ち込んだ6万字以上のテキストファイルから、ちょっと「いいな」と思うものを抽出する・・・という作業を開始したのだが、あまりの膨大さに明日に引き継ぐこととなった。
2026年5月12日(火)
寝ている間に思考が整理・熟成される・・・といういつものパターンで、夜中に目覚めた時に起き出して2つの単語をメモしていたが、起床した際にはそれらに加えて新しいアイデアが湧いていた。 そのMaxプログラミングについては後述するが、このところ「時間学会大会発表」と「生成音楽論テキスト」という2つが去来していたためか、昨日の作業では、両方ごっちゃになって厳選されたフレーズは、以下のように計49個となっていた。そしてこの中から、時間学会大会プレゼンで紹介するものはさらに厳選して「時間ネタ」にする必要があるのだが、昨夜から朝にかけて思い付いたアイデアを先に作業してみた。 メモで書き付けていたのは「ナレーション」と「Pure3rd」というもので、そこからYoutubeに行って「朗読 + 昔話 + 桃太郎」と検索して朗読音声をゲットして、プレゼン用に作っていたMaxパッチに20秒ほどのmp3ファイルを追加した。 話題として、「音声」から「音楽」に入るべきだ・・・というアイデアである。「よい散文を書く作業には三つの段階がある。構成を考える(composition)という音楽的段階、組み立てるという建築術的段階、そしておしまいに、織り上げるという織物的(textile)段階である」(ベンヤミン)
「<聞く>は生理学的現象である。<聴く>は心理学的行為である」(バルト)
「聴き取りの3つのタイプを示す。第一の聴き取りの場合は、生物は自分の聴力(聞くという生理学的能力の行使)を<指標>の方へ向ける。このレベルでは、人間と動物とは区別できない。第二の聴き取りは<解読>である。耳で捉えようとするもの、それは<記号>である。おそらく、ここから人間が始まる。第三の聴き取りは、限定され、分類された記号に狙いを定めていない、あるいは、それを期待していない。つまり、語られること、発せられることではなく、語るもの、発するものを対象としている。第三の聴き取りは相互主体的空間において行われる。そこでは、<私は聴く>というのは、<私のいうことを聴いてくれ>ということなのだ」(バルト)
「文字が発明されるずっと以前に、さらには、洞窟画が描かれるずっと以前に、おそらく根本的に人間と動物を区別することが生じた。それはリズムを意図的に繰り返すことである」(バルト)
「二つの音楽がある。聴く音楽と自分で演奏する音楽である」(バルト)
「人間の声は、<差異>の特権的な(形相的な)場、いかなる科学をも免れる場である。なぜなら、どのような科学も(生理学も、歴史学も、美学も、精神分析学も)声を分析しつくすことはできないからだ」(バルト)
「シューマンは、たとえ下手でも自分で演奏してみる人にしか、その音楽を完全には聞かせないのである」(バルト)
「すべてのプロセスは生成変化であり、生成変化は、その結末となる成果によって評価されるのではなく、その流れの質とその持続の力に照らし合わせたうえで評価される」(ドゥルーズ)
「時間には次の二つがある。(1)能動し、受動する物体のなかでの生きている現在としての時間の全体。(2)物体とその能動・受動とから生ずる非物体的な効果の中で、過去=未来へと無限に分割できる決定機関としての時間の全部」(ドゥルーズ)
「過去と未来だけが時間の中で自己主張して、それぞれの現在を無限に分割する」(ドゥルーズ)
「新しいメディアによる<連関>の増殖においては人々は、<画一的な情報>に囲まれた<自閉的>状態に陥って行く。こうした浅田の警戒は、常時インターネットから情報=広告を受け続ける - ウォークマン中毒からスマートフォン中毒へ - 今日の生活にするどくヒットしそうである。ドゥルーズもまた、生活の隅々を支援するという形で拡大する<管理社会>のソフトな権力を批判していた。愛の拡大を自称する管理社会=福祉の拡大が、私たちの孤独を奪っていく」(千葉雅也/ドゥルーズ)
「21世紀のグローバルなネットワーク社会に入って、非意味的切断は焦眉のテーマになる。情報のオーバーフローにおいては、意志的な選択よりも、偶々のタイミングで取捨されてしまった情報のいくつかのみに反応せざるをえないということが、前景化している」(千葉雅也/ドゥルーズ)
「空間は、時間の<中に>ある。それは、時間が自己の外に出ることそのものであり、時間の<自己への関係>としての<自己-の-外>なのである」(デリダ)
「形而上学の歴史において、最も強力につきまとう表象の一つは、円環(循環)としての時間という表象である。つまり、円環ないし球形の形態における過程もしくは運動としての時間という表象である」(デリダ)
「われわれのおかれている状況を決定しているものはメディアである」(キットラー)
「テクノロジーは文字を無効にするだけではなく、いわゆる人間というものから文字を吸い上げ、どこかに運び去ってしまった」(キットラー)
「時間はどのような芸術においても臨界点として存在する」(キットラー)
「ロック・ミュージックのような、編曲にもとづくマスメディアは人を動員へと向かわせるのであって、したがってベンヤミンのいう注意力散漫とはまったく正反対のものなのだ」(キットラー)
「流行歌やロックをわれわれがみんな諳んじているのは、それらを自分から一生懸命暗記せねばならないいかなる理由ももはや存在しないからだ」(キットラー)
「見えなくなり、聞こえなくなり、話せなくなった身体は、今やまるで大きなシミュレーション室にいるようだ」(キットラー)
「メディアの時代には、どれが人間でどれが機械であり、誰が狂人で誰が狂人の真似をしているだけなのかということが、もはや決定不可能になっている」(キットラー)
「意識的なものでなく、無意識の注意力を様々な芸術がコントロールするのが重要なのだ」(キットラー)
「ライティングとプログラミングとの相違がほとんどなくなってきている」(キットラー)
「人間が情報マシンを発明したことなどありえず、それとはまったく逆に、人間こそがそれらのマシンの生み出した主体/臣下なのである」(キットラー)
「今日われわれの誰もが承知していながら、決して口にだしては言わないことがある。書くのはもはや人間ではないという事態がそれである」(キットラー)
「マスコミでよく用いられる<情報洪水>なる言葉で逆に隠されてしまう本当の問題とは、情報として把握されたものと操作によって制御できるものとの間の差異がますます拡大している問題である」(ボルツ)
「コンピュータが偏在のなかに姿を消せば、そのことが未来のコミュニケーションのありようを示す最も重要な徴(しるし)となる」(ボルツ)
「新しいメディアの技術的現実のなかでは、人間はもはや情報の支配者ではない。人間自身が、フィードバック回路のなかに取り込まれているのだ。道具の使用者でなく、連結しあうメディア複合体のなかのスイッチのひとつにすぎない」(ボルツ)
「時間軸にそって展開される音楽全体の構造が崩壊して、リズムと統計と時系列へと分解される。ジャズにおいてはじめて明瞭な形で現われたこの崩壊の過程は、美的仮象の向こう側にある基本的な美的体験だ」(ボルツ)
「マーラーが民衆の祭の<不協和音>と見えるものを自分の<多声音楽>の幼い形の根源現象と理解していたことは伝記的にも明らかにされている。自然の音のランダム・ノイズや世界の騒音を整理された反響に仕立てたのがマーラーの多声音楽である。雑音と和音の境界で、カオス状態の正確な調整によって秩序が自ずと生み出される」(ボルツ)
「現代の社会は<持続的刺激>を受けている神経系であって、外からの刺激を使い果たすことで、自らを再生する。コミュニケーションはしたがって社会システムの<自己刺激>なのである」(ボルツ)
「ワールドワイドになった社会(世界社会)では、もはやどこかの場所に関連させることができない。ますます不足していく時間だけが、物を言う。すべての問題が、一時的なものとされることによって解決される」(ボルツ)
「情報が氾濫するマルチメディア社会においては、<付加価値>とは情報を減らすことに他ならない。知識社会は無知社会でもある」(ボルツ)
「情報は知識ではない。インターネットを念頭に置いて、情報のアナーキーという言い方ができるかもしれない。もはや制御できない状態になっているのだ」(ボルツ)
「確かなものには、新情報がない。新情報は、確実ではない。情報が多ければ多いほど、容認されることは少なくなる」(ボルツ)
「マルチメディア社会の情報洪水のなかで<付加価値>と言えるものがあるとすれば、それは<情報量の減少>意外には考えられない」(ボルツ)
「インターネット文化で通用するのは、<ネット化されればされるほど傷つきやすくなる>という原則だけである」(ボルツ)
「情報には、コストがかかる。お金ばかりでなく、何よりも時間がかかる。したがって情報は高くつくから、いつも不完全な情報しかないということになる」(ボルツ)
「エンツェンスベルガーは言う。われわれはますます多くを、ますます短い時間だけ覚えていられる」(ボルツ)
「サミュエル・ジョンソンは言う。知識には二通りある。(1)物事についてみずから何かを知っているか、(2)それについての情報をどこで得られるかを知っているか。7年間で世界知識が2倍になる現代において重要なのは後者である」(ボルツ)
「今日われわれは、知識の半減期を考えに入れておかなければならない。つまり、一生役に立つような知識を得ておくことはできない」(ボルツ)
「新しいものはますます急速に、古くなる」(ボルツ)
「乗り越え不可能な人間の限界にたいする反照を背景に、我々は問おう。コンピュータに出来ないこととはいったい何なのか」(ボルツ)
「空間の人間化には、時間の人間化が照応している。すなわち、星や年、日夜といった多数の自然のリズムから、また、歩行や走行、呼吸や鼓動から、個体の時間を集団の時間と結び付ける、象徴的な尺度を獲得する」(エスバッハ)
「ウェブ利用者は、インターネットの社会的利用によるあらゆる利便にもかかわらず、孤独に感じ抑うつに感じれば感じるほど、それだけ長いことオンライン状態にある」(ピッツバーグ)
「肝臓疾患の専門医によると、日本人は寡栄養に強く、過栄養に弱い。減らすというのはほんとうにむずかしい。栄養過多と並んでそこから抜け出すのがむずかしいのが、情報過多である」(鷲田清一)
「環境がさらに情報システム化され。人間への対応がスムースになればなるほど、音響体験に対する関心がより高まってくる」(アスコット)
「すでに、コンピュータを使ったり、オーディオ・ビジュアルな装置を使ったりして、音を聞いたり映像を見たりしている作業のなかでは<創作者>というものは消滅している。このままいくと、最終的にはみんながユーザーになってしまうとか、あるいはエディターになってしまうのでは」(多木浩二)
「時間の中に存在するもの、不可逆的なものと、時間の外にあるもの、永遠なものとの区別が、人間の象徴活動の根源にある。おそらく芸術活動において特にそうである。芸術活動は、対象物の時間的対称性を破る。それは、人間の時間的非対称性を対象の時間的非対称性に転化させた跡を残す。われわれが住んでいる可逆的で、ほぼ周期的な雑音のレベルの中から、確率論的で時間に方向性のある音楽が生まれる」(プリゴジン)
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さらに、上のような追加Maxパッチもササッと作ってみた。 これはChatGPTから得た「注意資源と時間感覚の文化変化の問題」に関するイントロとして、「12等分平均律の音楽を生まれた時から当然のものとして聞いて育った」現代人が、平均律長3和音の「唸り」を心地よい(当然)と聞いて、純正律長3和音の「唸らない」響きに違和感/不安感を覚える(現代人の協和感覚)・・・という実例として紹介するものである。
時間学会的には、ChatGPTの言った『ここが、あなたの問題意識の核心っぽい気がします。つまり、「なぜ“指揮者の速度差”は芸術的差異として享受されるのに、“再生速度変更”はしばしばタイパ扱いされるのか?」という問い。これはかなり面白い』、という部分(別に僕はそのように問題意識を明確に持っていなかったが)という方向に持っていきたいのだが、「再生の倍率変更によって、音楽の時間経験はどこまで別物になるのか?」という視点はまだまだ未解決である。 ここには「現代人の時間(テンポ)感覚」という基準が必要なのだが、これはなかなか難しいのだ。 「協和感覚」の比較は上のようなパッチで、昔の純正律と現代の平均律を正確に再現して比較できるのに対して、「昔の人の時間感覚」を現代において正しく再現する「術」が無いところが、時間学的には課題だと言えるだろう。 今のところ、このあたりをプレゼンでは強調したいと考えている。結局、昨日のChatGPTとのやりとりの収穫としては、上の部分に集約されるようだ。 現代人はタイパ追求の風潮に追われて、「遅さへの耐性」・「長期緊張保持」・「展開待機能力」が低下しているのでは? という問題提起はそれっぽい。 現代人の注意環境が、「数秒ごとの刺激更新」・「スキップ可能性」・「即時報酬」に最適化されると、「待機そのものが快楽になる」タイプの音楽経験が消滅してしまうのでは? という問題提起も、実にそれっぽい。 「人間はどんな時間経験を音楽に求めるようになっているのか」という問いを時間学的に検証しようとした場合、どのような調査/実験をデザインしたらいいのか・・・というのは、なかなか良い設問だと思う。 これはまた、ちょっと寝かせておくことにしよう。あなたが最後に拾ってくれた、「注意資源と時間感覚の文化変化」は、かなり重要だと思います。ここで問題になっているのは、「速く聴くこと」そのものではなく、 「遅さへの耐性」・「長期緊張保持」・「展開待機能力」かもしれない。マーラーやブルックナーって、極端に言うと、「まだ来ない」「まだ解決しない」「まだ頂点に 行かない」時間を体験させる音楽ですよね。つまり音楽内容が、“待つこと”そのものに埋め込まれている。なので、もし現代の注意環境が、「数秒ごとの刺激 更新」・「スキップ可能性」・「即時報酬」に最適化されると、「待機そのものが快楽になる」タイプの音楽経験が変質する可能性はある。これはテンポ問題という より、持続注意(sustained attention)の文化史に近い。しかも興味深いのは、クラシックだけでなく、現代ポップスも短くなっていることです。イントロ短縮、 即サビ、TikTok最適化など。つまり文化全体が、「時間圧縮」を起こしている。だからあなたの問いは、「倍速再生は是か非か」ではなく、「人間はどんな時間 経験を音楽に求めるようになっているのか」という、かなり深いところにつながっている気がします。そして、「生成音楽論」のテキストのために厳選したフレーズからさらに精選して、「時間学会大会」のために上のような9件を残してみた。 これはまだ、今後、変わる(さらに減る)かもしれないが、この作業自体が、また自分の思考を整理するのに役立った気がする。「シューマンは、たとえ下手でも自分で演奏してみる人にしか、その音楽を完全には聞かせないのである」(バルト)「形而上学の歴史において、最も強力につきまとう表象の一つは、円環(循環)としての時間という表象である。つまり、円環ないし球形の形態における過程もしくは運動としての時間という表象である」(デリダ)
「時間はどのような芸術においても臨界点として存在する」(キットラー)
「今日われわれは、知識の半減期を考えに入れておかなければならない。つまり、一生役に立つような知識を得ておくことはできない」(ボルツ)
「空間の人間化には、時間の人間化が照応している。すなわち、星や年、日夜といった多数の自然のリズムから、また、歩行や走行、呼吸や鼓動から、個体の時間を集団の時間と結び付ける、象徴的な尺度を獲得する」(エスバッハ)
「ウェブ利用者は、インターネットの社会的利用によるあらゆる利便にもかかわらず、孤独に感じ抑うつに感じれば感じるほど、それだけ長いことオンライン状態にある」(ピッツバーグ)
「肝臓疾患の専門医によると、日本人は寡栄養に強く、過栄養に弱い。減らすというのはほんとうにむずかしい。栄養過多と並んでそこから抜け出すのがむずかしいのが、情報過多である」(鷲田清一)
「環境がさらに情報システム化され。人間への対応がスムースになればなるほど、音響体験に対する関心がより高まってくる」(アスコット)
「時間の中に存在するもの、不可逆的なものと、時間の外にあるもの、永遠なものとの区別が、人間の象徴活動の根源にある。おそらく芸術活動において特にそうである。芸術活動は、対象物の時間的対称性を破る。それは、人間の時間的非対称性を対象の時間的非対称性に転化させた跡を残す。われわれが住んでいる可逆的で、ほぼ周期的な雑音のレベルの中から、確率論的で時間に方向性のある音楽が生まれる」(プリゴジン)
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ふとAbameTVを見てみると、王座戦の挑戦者決定トーナメント予選で戦う藤井竜王名人のライヴ中継をやっていたが、それより驚いたのは、Abema企画の「Abema地域トーナメント」というもののCM画面が出てきて、思わずスクショを撮ってしまった。 まぁ、これは将棋のタイトル戦とは違って「イロモノ」なので、基本的にはたぶん見ないのだが、特定の推し棋士がいる人には楽しみなのだろう。 今日はここまで朝からの作業で終了で、午後にはいつものお楽しみに出掛ける。
2026年5月14日(木)
「果報は寝て待て」である。 時間学会大会での発表に向けて、ここ何日かの沈思黙考の結果がなんとなく整理されつつある。 その整理は、睡眠の合間の朦朧とした状態、そして目覚め直前の混沌とした状態で、突然にスッキリとしてくるのだ。 今日の朝イチでは、以下のように「メモ」(暫定版)を作ってみたが、既にDemoのためのMaxパッチ3本も刻々と改訂しているので、ここから削れば十分にプレゼンのvolumeになってきたようだ。明日からはまた3日間連続のロボット教室となるが(金曜日に終わったミドルを日曜日までに最終版に改訂するtight schedule)、ここで時間学会ネタはしばし「熟成」の時期に移行して、今度は「生成音楽論」テキストの2度目の改訂作業という感じに推移していきそうである。 かつて猛勉強した「美学」「哲学」のほんのささやかな収穫も、ここにエッセンスとして効いているのが面白い。●時間学会大会2026プレゼン検討 予稿では・・・ 「ある音楽作品を作曲するのに要する時間」と「その音楽作品を演奏/鑑賞するのに要する時間」との関係 「タイパ」と言われる時代 ・サブスク聞き放題→頭出し選曲ザッピング ・ポピュラー音楽では「イントロ」がどんどん減ってきた ・昔よりもいきなりサビから入る曲が増えた ・ボーカルの歌詞もぎっしりと詰め込まれている 会話音声を倍速再生して内容が聞き取れるとして、果たして音楽作品を倍速で聞くことは作曲家の意図に従って「鑑賞」していることになるのか ・人間の作曲家は作曲のために演奏時間以上の時間をかけてきた ・音楽生成AIは音楽理論や音楽知識を持たず、演奏時間よりもずっと短時間でデータとして「生成」(作曲)する その音楽作品を倍速で演奏/鑑賞した場合、これは音楽体験としてどのような意味があるか ======= 「タイパ」のAI解説 ・少ない時間で多くの情報・楽しさ・成果を得ることを良しとする価値観 ・スマホや動画配信で、常に大量のコンテンツに触れられる環境 ・動画を1.5〜2倍速で視聴して情報だけ素早く得る ・要約記事やダイジェスト動画で内容を短時間で把握する ・退屈な部分を飛ばし、必要な情報だけを効率よく取得できる ・速さを優先しすぎると、理解が浅くなったり記憶に残りにくくなる ・作品や体験の「余白」や「味わい」を感じにくくなる 「倍速視聴」のAI解説 ・動画・音声の再生速度を上げて視聴する行為(1.25倍〜2倍程度が一般的) ・YouTubeや配信サービス、多くの学習プラットフォームで標準機能化 ・スマホ視聴やショート動画文化で、テンポの速い情報処理に慣れた層が拡大 ・講義・解説などでは、1.5〜2倍速でも理解度が大きく落ちないとする研究報告 ・既知部分や冗長な説明を短時間で飛ばせる ・情報処理量が増え、脳の負荷や疲労感が高まりやすい ・映画・ドラマなど「体験」重視の作品では没入感や感情移入が損なわれやすい ・作品体験を重視するなら等速〜1.25倍程度 ======= 実験結果 : バーンスタインに比べクレンペラーが1.35倍速かった ======= ChatGPTとの議論 「倍速視聴は浅い」みたいな道徳論ではなく、「音楽においてテンポは情報そのものではないか?」という問いになっている 本当に問うべきなのは、倍速再生は「解釈差」を消すのか? ではなく、倍率変更によって、音楽の時間経験はどこまで別物になるのか? むしろ危ういのは、アルゴリズム推薦や短尺文化によって、「長いテンポ形成」・「大規模時間構造」・「遅さに耐える注意」・「長期緊張保持」・ 「展開待機能力」が失われるケースが問題なのでは? (テンポそのものより、注意資源と時間感覚の文化の変質の問題) バーンスタインに比べてクレンペラーの速度が1.35倍でも、我々はそれを「誤再生」ではなく「解釈」として受け入れる なぜ“指揮者の速度差”は芸術的差異として享受されるのに、“再生速度変更”はしばしばタイパ扱いされるのか? 人間の聴覚系は適応が非常に強いので、しばらく1.1倍で聴いていると、それを“補正”して自然テンポとして再基準化する もし現代の注意環境が、「数秒ごとの刺激更新」・「スキップ可能性」・「即時報酬」に最適化されると、「待機そのものが快楽になる」タイプの 音楽経験が変質(→低減/消滅)する可能性がある 持続注意(sustained attention)の文化の問題 「人間はどんな時間経験を音楽に求めるようになっているのか」 「音楽とは時間芸術である」という一般論よりもっと具体的な、「人間はどんな“生きられた時間”を音楽の中で経験しているのか」という問題
「日記」シリーズ の記録