JASMIM2010 発表資料

『それはよい即興、これはわるい即興』なのか、『それは即興であり、これは即興にあらず』なのか

長嶋洋一 (SUAC)


概要
 企画テーマのお題「よい即興、わるい即興」を知った時の第一印象は、誰でも主観的に「即興」を名乗れる、いわば「文系の即興」であった。即興を自明の前提として善し悪しを議論できるのは幸せだと思う。
 筆者のComputer Music領域では、センサ/インターフェースから、偶然性や確率統計的な要素を含めた音楽演奏のインタラクション、ライブに音楽・音響要素を生成するアルゴリズムまで、システム全てを論理的にバグなく構築する必要があり(でないと公演の場で停止/崩壊する)、そこでの、いわば「理系の即興」との違いを感じたのが、今回の発表の動機である。
 作曲者自身がパフォーマンスも行う場合には、即興について「よい即興、わるい即興」を議論できるので単純である。ところが作曲と演奏が分業体制となると、即興そのものについて考えさせられるような状況が発生する(もともと作曲は全て即興である)。例えば、高度な演奏表現/技法を求めて専門の演奏家に依頼したら、即興は苦手なので楽譜にして・・・と頼まれた事例がある。自由な表現を求めてダンサーにパフォーマンスを依頼したら、ヘンな仕草をするだけの「芸人」になってしまった事例がある。
 パフォーマーそれぞれが持っている「即興」が異なるので当然とも言えるが、Computer Musicの場合には「お釈迦様の掌の上の孫悟空」のように、即興に対する制約・関係性を周到に作り込むことが、作曲家の腕の見せ所である。また、即興する上で、システムがどのように反応してくれるのか・・・というリハーサルは非常に重要であると感じている。正体の知れない(理解できていない)相手に対して何か即興してみる、というのは、単なるデタラメでしかない。たぶんこれは悪い即興である。
 音楽即興においてもっとも重要なのはおそらく「耳」であり、耳が悪い(音楽の空気を読めない)演奏者の場合には、仕方ないのでライブ演奏中であってもステージ上でプログラムを修正してインタラクションを「よい即興」の方向に向ける事もあった(失敗すると悲惨なのであまり推奨しないが)。状況に応じて刻々と変容する自動作曲アルゴリズムを公演の中核にする場合には、演奏者が状況を把握できつつ、聴衆にはその全容は知られない(技術デモではない)という匙加減が重要である。このように論理的に即興を構築することが、「理系の即興」の一つの醍醐味であると感じている。

「即興」に関するもろもろ

自分のLive Computer Music作品でのImprovisation