新聞の広告で、「
授業を変えれば大学は変わる
」というタイトルの本を知りました。
さっそく書店から取り寄せ、読んでみました。
これまで非常勤でしか大学教育に関わってこなかったので、あまり
関心が無いといえば無かった(^_^;)のですが、ちかぢか常勤でも
教えることもあって、いろいろ参考になりました。
とりあえず一気に一読したのですが、読後ちょっと気になったのは、
その日本語です。さすがに作家の三田誠広さんの文章は(講演録の
部分はやはり駄目(^_^;)として)そこそこ読めましたが、あとの方々の
文章は、内容と主張については十分に評価しつつも、日本語の文章と
して、二度読みにはちょっと耐えられないものでした。
やはり今の日本で何度読みにも耐えられる日本語を書けるのは、
筒井康隆師匠と大江健三郎さんぐらいしかいないのでしょうか。
...という苦行の中、今後の参考のために、二度目は鉛筆を手に読んで、
自分として参考となる部分を抜き出しました。
これで今後は、もうこの本を読むことはなくてもいい(^_^)ように、
と自分なりに精読しました。
何度も同じようなフレーズが異なる場所で登場しましたが、省略する
ことなくそれぞれチェックしました。
以下のメモは、自分が今後、大学教育とか自分の講義における参考と
するために、その傍線を付けた部分を、本に登場する順に抜き出して
まとめたものです。
あくまで、自分のためだけのメモです。ピックアップしたからといって、
全てに同意・賛成しているというものでもありません。
お読みになるのは自由ですが、あまり参考にしないで、どうぞ、自分で
この本を入手してお読み下さい。(^_^;)
理念編
- 学生に基礎知識があろうとなかろうと、授業が面白くなければ学生の向学心に火がつかない。
火をつけることが教師の第一の責務であり、大衆化時代の大学教師は授業力を鍛えないと
存在意義がない。
- 大学の教師に求められる主要な仕事は、「学生に授業をすること」と「専門の研究を行うこと」、
そして「学会活動を含む社会サービス」である。
- 何事も「不透明さ」は不信を招くもと。
- 授業評価というのは、高い授業料を払っている学生の授業満足度(到達度)をチェックし、
彼らの可能性を引き出す授業を実現するために、教師が努力するための指標である。
- 入学を許可した学生を4年間の大学生活で「付加価値」をつけて卒業させることが大衆化時代の
大学では求められる。その付加価値は主に授業を通した刺激から生まれる。
- 勉学意欲の乏しい学生は知的好奇心に火がついていないだけなのだ。大学教師は自分の授業を
改善しようと思うなら、学生の視点に立って、その満足度や到達度を知るべきである。
- 学部や学科に関係なく学生が授業に求めているのは第一に「興味」であり、「興味」の
持てない授業に対する評価は低い。
- それに次いで学生がポイントとするのは、「重要なところを強調する」
「話し方が明瞭で聞き取りやすい」「教師の授業に対する熱意」である。
- 大学活性化のためには、授業評価の結果を「学生に公表すべき」であり、さらに
「教員全員参加で全員公表」へと進むべきである。
- 学生が授業料を払うのは教師の研究にではなく、第一義的には授業に対してである。
- 大学の第一の社会的責任は「入学を許可した学生に付加価値をつけること」ではないか。
- 大衆化された大学では、教員による一方通行的な授業ではなく、教員と学生との人間的な
コミュニケートを通して学生に付加価値をつけることが重要になる。
- 大衆化された高校や大学では教師の側に熱意がなければいけないし、授業力も相当に鍛えないと
授業が成り立たなくなる。
- 大衆化した大学で最も大切なのは「授業」である。
- 授業評価を人事・給与面に直結させないことには大学の授業は決して面白くならない。
- 情報化時代を生きる学生は、目の前の教師だけをその道の指導者などとは思っていない。
- 自然科学はチームワークである。優秀な学生に参加してもらわないと、レベルの高い研究はできない。
- シラバスに沿って授業を行うので、学生諸君がついてきてくれれば基礎的なことはマスターできます、
ということを学生にオファーしていることになる。
- 学問や勉強に対する学生のモチベーションを高めることが大衆化時代の学生教育の第一の目的であり、
知識の伝達は第二にすぎない。
- 大衆化したとはいっても、学生は何がしかの期待感を抱いて大学に入学してくる。
- 大学の教師にとって最も恐いのは同僚教師の評価である。同業者の声がいちばん堪える。
- 「授業評価」は、教師と学生との間に適度な緊張関係をつくるので好ましい。
- 大学が大衆化する以上、学部教育は「主体性を身につける教育」を中心に行い、
「専門的勉強」は大学院で行うべきである。
- 大学は学生のためにある。
- カレッジというのは教会のコレジオが語源で、「一つの建物でみんなで勉強する施設」という意味。
- ユニバーシティとは「一つの方向に向かって皆で一緒に勉強する」というような意味で、
マスターのように技術の修得の必要のない、ドクターとなる知識を教える施設、というのが語源。
- 個人の頑張りがなければ、文明、文化というものは成立しない。
- 人間には認識能力があって、自分自身を含めた世界を認識できる。人間とは、
「認識する主体として生きる存在」である。
- この宇宙には「隠されたシステム」がいっぱいある。隠しファイルがいっぱいあるのに、
人間が気付いていないだけである。大学という場所は基本的には、この隠しファイル探しの
面白さを人から人へと伝えていく機関である。
- 「考える葦」である人間の思考力は、宇宙を、また神をも包み込むことができる。
- 学生は大学で勉強している瞬間は、「知の体系」というものと真正面から向かい合っている。
つまり、一対一で宇宙と勝負している「考える葦」である。
- 文学部の学生だけでなく、誰でも生涯に一回くらい、小説を書くという試みをしてみるのもいい。
- 100篇の優れた小説を読むと、読者は100通りの人生を体験できる。
- 人生につまずいたときなどに、この体験を小説にできないかなというふうに考えてみるといい。
- 書くことは、書く人にとっても、癒しになる。
- 小説を書こうという意欲を持っている人は、そう簡単には挫折しない。
- 小説を書こうとしている人間は「自分の苦悩を客観的に見る」ことができる。
- 自分というものの中には、まだ一度もクリックされていないファイルが、いろいろと隠されている。
- 授業評価における学生の自己評価が低い場合の要因として、教員の博識を認め、なおかつ、
教員が熱心である場合には、学生は「自分の非を認めざるをえない」ことになる。
- 大衆化する大学とは、教員の抱く学生像あるいは推察行動と現実との差が急激に広がることである。
- 私の講義は出欠をとっていないので、意欲のない学生は消えてくれる。出欠をとっていないのに
教室に来てくれる学生は、本当に私の講義を聴きたいと思っている学生たちだ。
- 一般大衆を「お客さま」として相手にしているという認識が、今の大学の先生方には
非常に欠けている。
- 多くの学生たちがも、苦しい受験勉強を経た末に大学に入学し、マルバツ式の受験勉強とは
違った、もう少しマシな授業が受けられるのでは、という期待を抱いて新学期の教室に向かう。
- 学生による授業評価の試みも含めて、大学関係者のすべてが、大学はどうあるべきかという
理念を模索し、話し合い、大学管理者と教員と学生が一体となって、大学改革を進めていくことが
必要である。
- 「学びたい」というモチベーションは、一般の学生よりも、社会人のほうが強い。
- 大学の「研究」について、何かがわかる、というのは、それだけで凄いことなのである。
- 大学というのは、本来的には研究者を育てるところである。
- 真理を探求する「研究」の真似事をするという体験は、実学とは違った、貴重な体験を
学生にもたらすことになる。
- 金銭を目的としない研究というものの一端に触れていると、世の中は金銭だけで評価される
ものではないという、価値観の指標を持つことができる。
- 本来の大学の役目は、これだけの学習をすれば、一人前の知的な労働者として、
キャリアのある中高年の労働者と対等に仕事ができ、同程度の収入が得られる、というくらい
の知識を授けることにある。
- 学生の要求は、職業訓練だけでなく、もっと広い知的教養を得たいということである。
- 苦しい受験勉強に耐えた彼らは、知的な資源を持ち、意欲と集中力を持っている。そして、
マルバツ式の受験勉強とは違った、もっと深くて知的な授業が、大学には用意されているはずだ、と
大きな期待を抱いて入学してくる。
- 仕事のほかに、幅の広い教養や趣味を持つことは人生を豊かにする。むしろ生きる喜びは、
そちらのほうにある。
- これからの大学の責務は、学生たちに実学のみならず、広い教養を授けることにある。
- これからは、大学そのものがカルチャーセンター化する。
- 学生は一般大衆であり、消費者にすぎない、と割り切るべきである。
- 大学というのは、一種のサービス産業である。
- 大学には、実学から一般教養、さらには真理の探究に至る講座まで、多種多様の授業が
揃っていなければならない。
- 授業評価は人気調査でなく、学生たちの能力が向上するような授業が実施されたか、
ということも重要な指標になる。
- 教員の世界にも競争原理を導入すべきである。
- これからの大学を考えていくためには、ある種の哲学と未来への洞察力を持ったメンバーを
集めて、大学とは何かといった問題を根底から考えるプロジェクトチームをつくる必要がある。
- 学部・学科の教育目標設定→カリキュラム改編→各授業科目のシラバス作成→授業の中心である
学生による授業評価→授業評価のカリキュラム・シラバスへのフィードバック、という教育のサイクル。
- 良質な授業評価用紙が提出されるかどうかは教師の授業姿勢の大いなる成果の一つである。
- 授業評価は学生と教員、学生と大学との間の数少ないコミュニケーションの機会の一つと
捉えるべきである。
- 学生の大学に対する満足度、顧客満足度という概念。
- 「授業」を通して学生に「付加価値」をつけ、自立への手助けをすることこそ
最重要課題である。
- 選ばれる大学になるには、教育の質を高めることが最も重要である。
- 大学に、学生自身も父母も企業も「学生に付加価値をつける大学」を求めてきている。
- 学生や保護者が、学費に見合う教育サービスを要求するのは当たり前である。
- 属人的カリキュラム・システムから脱却し、カリキュラムを学部・学科、教員から切り離す
ことができるかどうかにかかっている。
- 入試方法を多様化する以上、大学教員の意識改革と授業のやり方の改良も同時にしなければ
無責任というものである。
- 自己点検を行い、外部評価を実施し、その土台の上に立って大学が「個性化」の努力を
積み上げていくべきである。
- 日本の教育は「教えるシステム」から「学ぶシステム」により速く変わるべきである。
- 「読み、書き、そろばん」、つまりは国語と数学、そして世界語である英語。
- 教育というのは単に「知識を与える」ことではない。エデュケーションという英語には
「才能を引き出す」という意味が含まれている。
- 「大学で学びたい」と答えた新入生は91%、これが翌年には50%以下になる。
実践編
- 教師たる者は、まず第一に骨惜しみをしないこと。われわれは研究者であることの前に教師であり、
学生に教えることで給料をもらっているのだから、工夫と懸命さこそ大切である。
- 学生が奥深く秘めている創造的な能力を刺激しようと思ったら、教師にも絶対に
研究能力が必要である。
- 学期が開かれている間は研究を第一には置かない。
- 従来のような「上から知識を押しつける授業」を改め、学生が「自分の意欲で学ぶ方法を教えること」
が重要になる。学問の面白さ、未知のものを自ら調べる醍醐味を体感してもらう。そして、
知的好奇心に火をつける。
- 授業テクニックの向上と同時に、学生に付加価値をつけたいという教師の姿勢(熱意)が
いかに重要であるか。
- ベテラン教師になればなるほど、学生による授業評価が低くなる。
- 講義内容に高校段階の補習的勉強を取り入れながらも、問題を素早く解くことを第一に求められてきた
高校段階の授業とは明らかに異なる、「新しい発見」のある工夫した授業をする必要がある。
- 学生は教師に対して、一方通行の授業形態を望んでいない。
- バラバラだった知識が整理されていくなかで、隠された真理が浮かんでくる醍醐味を
きちんと教えなければいけない。
- 君たちのためになんとしても教えたいことがあるんだという教師の側に熱意がないことには、
生徒もこの先生の授業についていきたいと思うわけがない。
- きちんと準備をして授業に臨むと、怒るときにも心から怒れるし、怒っても後悔が少ない。
- 授業を通して「自分自身の在り方」を見つめさせ、大きな視野に立って行動できる人物を育成する
ことが課題である。
- 授業ではなるべく自らの体験や、これまでに辿ってきた人生を話す。
- 人間の「体験に根差した」言葉は、知識だけでは伝え切れないものを学生に確実に伝えることができる。
- 「面白い授業」をすれば、学生は決して私語などしない。
- クイズ形式の問いかけで大事なのは、必ず全員の手が挙がっているのを確認すること。
- 授業にメリハリをつけること。重要なポイントを強調すること。
- 教室に何百人いようと、教員として常に学生と「一対一の関係」で教えていることを
頭に入れておくべきである。
- 教室で教えている内容が、世の中で脚光を浴びているさまざまな「最先端の問題」と
どう関わっているかを絶えず明らかにしておくこと。
- いかに情報化時代を生きている現在の学生とはいえ、最先端の刺激には目を輝かせる。
- 教師の学問レベルにおける「引き出しの多さ」は学生の関心を引きつける。
- 教育は一種のアジテーションである。
- 授業を通して学生を前向きにさせることが不可欠である。
- とにかく学生に本を読むことを勧める。読んでは考え、考えては読む。
- 授業を通して教師の血の通った人生観が伝われば、彼らの心に波紋を広げることは可能である。
- 教師も「社会的な引き出し」を多く持つことだ。
- 授業は一種の演技であり、教師は教壇という舞台に立つアクターである。
- 段取りを確かめておいてから「舞台」に上がるのは、役者である教師として当然である。
- 学生を「舞台」に引っ張り上げて、教室全体が劇場と化すようにする。
- 学生に文句を言っていても何も解決しない。大衆化時代の教員は授業力を磨かないと
授業がそもそも成立しない。
- 何よりも自分も学生と同じ人間であることを忘れてはいけない。
- 絶えず学生との間でコミュニケーションを保とうと努力する教師の授業は、評価が高くなる。
教師の側にも相当のエネルギーが求められる。
- 学生たちの反応の第一の指標は、「学生たちの表情」である。
- 学生に対するサービス精神を忘れてしまっては教員としては失格である。
- どうしても勉強したいという強いモチベーションを持っているわけではない一般の消費者と
しての学生の興味を惹きつけ、興味を持ってもらうためには、「わかりやすく面白い授業」を
創造しなければならない。
- 学生にコミットし、魅了する、エキサイティングな授業を実践しなければ、
「お客さま」の気持ちは授業から離れていく。
- 大衆化し、多様化した学生のニーズに応え、また社会の要請にも応える授業とは、
要するに、楽しくて中身の濃い授業、ということである。
- レベルの高い授業を、「なるべくわかりやすく、楽しく聴きたい」というのが、
エンタテインメント時代を生きる学生側のニーズなのである。
- 教える側の見識によって、授業のレベルは維持しなければならないが、内容がレベルダウン
しない範囲内で、なるべくわかりやすくすること。
- 「わかる授業」「興味を引く授業」「感動や刺激を与えてくれる授業」の研究と開発が
求められている。
- フレッシュな気持ちを内に秘めて大学に入ってきた学生に対して、「学ぶって、面白いなあ」
と感じさせる授業をしてこそプロの教員である。
- 「問題提起能力」と「問題解決能力」は、「人から教えられるシステム」の中では決して
育たない。「自ら学ぶシステム」の中で成長してきた人間でないと、この能力を発揮できない。
- 「授業力」は鍛えられる。
- 学生たちのモチベーションを高め、自ら進んで学ぶ者を育てる「教員の仕事」にとって大切な
土台は、「教育への情熱」である。その土台の上に授業力にまつわる「技術」を各教員が
鍛えていく必要がある。
|